ryutaro108

日本を離れてわざわざ考えるというのも
なんだかおもしろいものだが、
「ことばづかい」って、大事なんだよなぁ、と。

篠原ともえさんが、わぁわぁとやっていたころ、
この人は、こんなに妙なかっこうして、
やたらににぎやかに騒ぎまくってるけど、
どうしていやな感じがないんだろうと考えた。
それは、すぐにわかった。
「ていねいなことばづかいができていた」のである。
過剰というほどではなく、丁寧語をつかっていた。
これだけで、なんとなく
その人の大事にしているものがわかるような気がする。

存在というか、姿や役割がへんに見えるのに、
「ことばづかい」がていねいな人という系譜があって。
「さかなクン」さんも、そういう分類に入ると思う。
最近では、壇蜜さんもそのジャンルなんじゃないかな。

悪いことばをつかうな、という教えは、
聖書の時代、いやもっと前からずっとあるだろう。
ていねいなことばをつかって
他人に見せるために「取り繕え」
ということではないのだ。

「どういう人であるか」というよりも、
「どういう人でありたいか」という気持ちが、
つかっていることばになって表われるのだと思う。
「どういう人でありたいか」という理想の持ち方は、
かなり重要な生き方に直結しているのではないかな。

生きていると、わからないことだらけだ。
知れば知るほど、わからないことが増えていく。
それは、まったくよろしいことなのだと思う。
そのうえで、「どういう人でありたいか」が、
とても大事と思えるのだ。
その「ありたい人」に、じぶんも、他の人びとも、
似てくるのではないだろうか。
遠い国までやってきて、そんなことを考えていた。
空や海や島は、「ことばづかい」がきれいだなぁと思う。 

今日のダーリン 2014/05/24 (via drhaniwa)

(via 09345)

友達とは奇妙なものだと思う。
義理叔父の最も仲の良い友達は中学の1年から大学を卒業するまでヒマさえあれば、ほぼまる一日べったりくっついて生活していたという新聞記者の友達だが、このひとがニューヨークにいた義理叔父に手紙を送ってきたことがあった。
「こんな会社では新聞記者などやっていられないのでおれは会社をやめて蕎麦屋をやることにした」と書いてある。

義理叔父は、まだインターネットがなかった頃なので「ヤメルナ」と電報(!)を打つと、もう何年も会っていない友達に会いにいちばん早い便のユナイテッドで日本にでかけた。
待ち合わせた神戸で、ホテルに隣りあった部屋をとって、交代で煙草をふかしながら、吸い殻でたちまち山盛りになった灰皿が載ったテーブルをはさんで、ほとんど黙って向かい合っていた。

ときどきどちらからともなく「腹減ったな」と述べて外に出て食事に行くだけなので、なんとも手持ち無沙汰で、仕方がないのでレンタカーを借りて、中年のおっさんがふたりで、奈良まで出かけたそうである(^^;)

4日間、そうやって、無言を無言で塗り込めたような毎日を過ごして、帰り際に
「会社、やめるの、やめたよ」
「あたりまえだ」という会話を交わして、おぼえている会話はたったそれだけだった。

「日本まで行く必要なかったんじゃないの?」と、わしが訊くと、
「バカだな、ガメ、あいつがおれに手紙だすなんて異常な事態に行かないわけにはいかないじゃないか」という。
「第一、あいつがおれのニューヨークの住所を後生大事に5年間もおぼえていたのを知ったときには心臓がとまるかとおもったぜ。そういう奴じゃないんだよ。よっぽど会社でくやしいことがあったんだろう」
と述べる義理叔父の目には涙が浮かんでいたのをおぼえている。
念のために訊ねてみると、それからまた10年近く会っていないそうで、どこまでもヘンな人たちであると思う。

友達、5分前 | ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日 (via ginzuna)

(via neetria)

「とにかく自己ほど神秘的で謎めいた存在はない。これこそが人間であると思うよ。説明不可能な事象に科学のメスを入れたり、分析したりしなければならん理由などどこにもない。合理的な解釈が行われなきゃ行動できないというのは自我の崩壊に恐怖を抱いているせいだ。苦悩や苦痛のg寝人を生む自我が何ほどの価値を持つというのや。自己を愛するということと自我を愛するということは別問題だと思うがね。

もし本当に自己を真から愛することができるのなら自我を捨てることぐらい朝めし前でなきゃおかしい。自我を後世大事に守りながら、自己を愛するということは不可能に近い。芭蕉が俗界から足を洗って旅に出たのも真に自己が可愛かったからであろう。何ものからも束縛されず本当に自然の本源と一体になって真の自由の大海の中を悠々と抜き手を切って泳ぎたいと念ずるなら、芭蕉がしたように全てを放下(ほうげ)するより道はないのと違うか。永遠の真理の探究者になることを自己に約束するなら、自我を捨てることが最も近道だろう。

自分自身を完璧に愛することを躊躇していることは自我を愛していることである。自我を愛することは芸術家にとっては完全な神の意志の伝達者としての道具としては不完全である。とにかく難しい。何も芭蕉みたいに家族も名声も捨てて旅にでる必要はないけど、人は一度手にしたものを手離すということが、如何に難しいかということだ。一度手にしたものには情が移る。愛情ではなくて、情なのである。愛はその対象を解放して自由にしてやることができるが、情はその反対に抱きかかえて相手の自由を束縛してしまう磁性力がある。

多くの場合愛と情をごっちゃにしてしまっているはずだ。執着というのは愛ではなく情を指す。この執着が曲者である。われわれは愛と情の区別さえできないでいるように思う。子どもや妻に対する愛は本物だろうかと自問することがある。愛と言う名のもとで子どもや妻の自由を縛っているとすれば、それは愛ではなく情だ。天上界には親子の情愛というものはないはずだ。天上界では全て兄弟(姉妹)としての共存で満ちている。友だちのような親子関係が望ましいのだ。
日本人の美学の中に情を認める文化があるが、この美意識は危険なものであるとワシは思う。情をかけることによって相手が生かされるというのは実は大間違いだ。「情は人のためならず」とか言うじゃない。真に相手のことを思うなら、そこには自己犠牲の精神がなければそれにタッチすることを禁じるべきだ。情は相手も自分も同時に殺してしまうことになるからだ。」



(横尾忠則)

— (via stilllll)

(via usaginobike)